黒田城

山内一豊生誕地

別名-  付近住所 愛知県一宮市木曽川町黒田古城26-2 現在 黒田小学校
2012/4/2 碑・案内板・銅像アリ 日本城郭大系


五藤光正

山内盛豊

織田広良

和田新助

和田定教

沢井雄重

一柳直盛

冨永忠兼
 明応年間(1490年代)相模の国か尾張に入った五藤源太左衛門光正が黒田に館を築いたのが始まりと考えられる。

戦国時代の黒田城
 天文年間、岩倉城を本拠とする織田伊勢守信安は家老の山内但馬守盛豊を黒田の城代とした。弘治3年(1557)7月に山内盛豊は黒田城で夜討にあい長男十郎と共に討たれた。
 その後、犬山城主織田十郎左衛門信清の弟 織田勘解由左衛門尉広良が城主となる。永禄5年(1562)織田広良が美濃軽海で討死したあと、犬山織田の家老和田新助が城主となる。天正2年(1574)伊勢長島における一向一揆の戦いで新助が討死にし、弟の和田八郎定教が城主となった。
 天正10年(1582)織田信長が本能寺で明智光秀に討たれた後、織田信雄は伊勢・尾張を領することとなり、清洲入りし、沢井左衛門尉雄重を黒田城主とした。
 天正18年(1590)小田原北条氏攻めのとき、一柳伊豆守直末戦死、豊臣秀吉は弟の一柳四郎右衛門直盛に一柳家を継がせ黒田城主3万石とした。四郎右衛門改め一柳監物と名乗った。秀吉の死後、家康側につき関ヶ原の戦功により伊勢神戸5万石に転封された。
 その後、家康の四男松平忠吉が尾張に封ぜられ家臣冨永丹波守忠兼は一柳監物の去ったあとの黒田城に入った。「清洲分限帳」によれば慶長14年まで黒田城をあずかっていた模様である。

山内一豊この城に生まれる
 天文14年(1545)山内一豊は、盛豊の三男としてこの地で誕生した。
 弘治3年7月、黒田城夜討にあい父盛豊、兄十郎が討死。一豊と母弟妹は土居の後ろにかねて作っておいたかくし窓を突き破って竹薮に逃げ、生竹を倒して橋とし、堀を渡って岩倉城にたどりついた。
 のちに信長、秀吉に仕え、小田原戦の後、秀吉より掛川5万石の領主に封ぜられた。
 関ヶ原の戦いでは、いちはやく家康側につき、戦後この功により土佐国一国20万石の大名になった。

         


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